家庭集会の記録
1999.3.3
家庭集会に集っているあるご婦人の方がこの度ご主人を亡くされました。葬儀は教会で行われました。ご主人の生い立ちから召されるまでの事を家庭集会の中で証しされましたのでそれを載せたいと思います。
夫は教員夫婦の長男として生まれました。何不自由なく育ったぼんぼんでした。学徒動員で学業半ばで戦地に行かねばなりませんでした。
その中で経験したことは非常に理不尽な訓練でした。騙し討ちのような物が訓練でした。それに夫は耐えられなくなり父親の所に泣きついて行くと、父親が何と言ったかというと「そんなに苦しいなら志願しなさい。」という事でした。2年間勉強した後、馬をつけられ 兵隊を付けられました。そしてフィリピンのマニラに行きます。そこでは飲めや歌えやでフィリピンの女子や日本からのそばめを連れてきて贅沢の限りを尽くして遊んでいました。上の者だけがその様な贅沢をしていたようです。
苦労してきた人達が現地に残され全員万歳と言って米艦隊に突撃して戦死しています。夫はたまたまマラリヤにかかってて、立ち上がれませんでした。手榴弾でやっつけようとしましたが投げる力が無くて捕虜になります。日本兵で有れば毒薬で殺されていたはずでしたが、が米軍は捕虜を殺しませんでした。治療を与え本国に返してくれました。見方が見方を殺し、敵が助けてくれました。
戦後北電に勤めます。原子力発電所の廃液の調査に当たります。その後ガンになりますがガンは治ったのですが、看護してくれた先妻の方に先立たれてしまいます。
妻によって助けられた夫でしたが、その後海外商品取引で詐欺に引っかかってしまい、全て騙し取られてしまいます。憎しみと悲しみと恨みつらみが支配する中で倒れてしまいます。
富良野の協会病院に入院した時に、富良野キリスト教会の千葉保という牧師がしばしば尋ねて下さり手を取って祈って下さいました。その頃夫の顔がだんだん変えられて行きました。死亡した時にも本当に赤子のような、穏やかな、人を信じ切ったような、顔になっていました。神様に救われたと確信しています。
七十七歳で風邪が原因で死んでしまいました。初めて教会に足を運んでくれた人もたくさんいましたが良かったなという葬式でした。
1998.12.1
12月という事もありクリスマスの歌を何曲か賛美いたしました。その後マタイによる福音書の1節から12節を読みました。
「 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」
今回は特にここに出てくる「学者達」について学びました。
日本では四季の移り変わりがあるので特に空を見て季節を知る必要はありません。しかし見渡す限り砂漠ばかりのペルシャ辺りでは空ばかり見上げていたようです。そして地図も磁石もないが星を見て判断し砂漠の中を旅して行くのは不思議な術のように思われていたようです。博士達が迷わないで旅が出来たということは魔術を知っているのではないかとさえ思われていたようです。更によその国へ行ってその国の言葉をまねたり習ったりして多くの国の言葉を話すようになっていきました。又よその国ではこのように病気を治していた・・・・と医学にも通じるようになって行きました。通訳兼相手の国の文化を見てる人だったので国の顧問になっていったようです。よその国を見て歩いていたので建築、医学、都市計画など人間の知恵の最高のものを身につけていったようです。賢者と呼ばれ王でさえもが頭を下げたような身分だったようです。
そんな最高の身分の人達が「この赤ん坊に未来がある・・・」とその事を見破りひれ伏して拝んだ。他人に頭を下げることのない人達がひれ伏してつまらない赤ん坊を拝んだ。神は人の考えより遙かに大切なことをなして下さった。 博士達だったからイエスは救い主と見破ったのかも知れない。
この博士達は三人と言われているが複数形だから一人ではないことは明らかだが何人かははっきり解ってはいません。大部隊だったかも知れません。
旧約聖書の預言は有ったが当時書物はそんなにたくさんはなかった。700年前にイザヤが「一人の女が身ごもって一人のみどりごが生まれる。」と預言しているが学者達もこれを読んでいたのではないか。または星を見てこれはユダヤだと感じてユダヤの文献を読んだのかも知れない。
人は現実的で神は桁外れに高いところで御心を行っている。しかし人の現実とかけ離れたことも書いてはいない。 「マリヤが聖霊によって身ごもった」とある。それを見てヨセフは密かに離縁しようとしたとある。夢の中で「あれは聖霊によるものである」と神様から言われて納得して行くのであるがしかし周りの目もあり大変だったと思う。マリヤはもっと困っただろうと思う。「私は男の人とまだ寝てないのに・・・・・」マリヤは控えめな謙虚な人だったのだろうと思う。
1998.11.3
創世記2章では「命の木と善悪の知識の木から取って食べてはならない」と言われた。取るなと言われた木からなぜ取って食べたのか。神の口から出た言葉によってではなく、蛇の口から出た言葉によって罪を犯した。神の口から出た言葉を納得の出来るところのみを守ろうとしているだけ。命令をただ守るという気持ちを持つときに、様々な矛盾の中から抜け出ることが出来るのではないかと思う。
カナの婚縁で水を運んでいた僕(しもべ)達 、(ヨハネ2章1−11、それから3日目にガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも又弟子達も婚礼に招かれた。ぶどう酒が無くなったとき母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」といった。さてそこにはユダヤ人のきよめのしきたりによって 、それぞれ80リットルから120リットル入りの石の水瓶が6つ置いてあった。 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。 )
又ヨシュア記においては、抜き身の剣の人が現れ「あなたは敵か味方かと問うと「私は主の将軍である。あなたの靴を脱げ。6日間1周し7日目は7回周り・・・・・」(ヨシュア5:13より。「 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。 主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。
祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」 そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」 ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」
ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。
ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」 こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。 翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。
七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。 彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。 七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。 その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。
この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。 ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。」
そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。 )
またイエスは「しかし私の思いではなくあなたの御心がなりますように」と祈った。(ルカ22章39節より それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」)
我々の考える善が必ずしも御心とは限らない。私たちの魂を神に委ねるより他にない。信仰とはただ神の御言葉に従うのみだと思う。アダムとエバもそこの所が問題だったのだと思う。
1998.10.6
創世記の3章より学んだ。
「神である主は人に命じて仰せられた。あなたは園のどの木からでもとって食べても良い。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるときあなたは必ず死ぬ。・・・・・
蛇は女に言った。あなたは園のどんな木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。女は蛇に言った。私たちは園にある木の実を食べても良いのです。しかし園の中央にある木の実について神は「あなた方はそれを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方は死ぬといけないからだ。」とおっしゃったのです。蛇は女に言った。あなた方は決して死にません。あなた方がそれを食べるときあなた方の目が開けあなた方が神のようになり善悪を知るようになることを、神は知っているのです。そこで女が見るとまことに食べるのによく、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ夫にも与えたので夫も食べた。・・・・・
あなたは食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。人は言った。あなたが私の側に置かれたこの女があの木から取って私にくれたので私は食べたのです。そこで神である主は女に仰せられた。あなたはいったい何ということをしたのか。女は答えた。蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。・・・・・・・・」
人は善を行う力がないのに善を知ってしまった。悪と戦う力がないのに悪を知ってしまった。人は自分の力で善や悪を取り扱う力はない。男は女の判断に従ってしまった。見るのによく美しく見えた。神が言われたことに立ち返ったら神の一言に立ち返ったら避けられたかも知れない。
結婚生活する人間を結婚させたときにやっと仕上がった。
ヨブは裸で生まれたのだから裸で死んで行く。それは良い。しかし神がどうして自分の上にこういうことをなさるのか理解できない。それに対し四人の友は何が原因かを神との関係の中で考えろという。最後に神が言ったことは「全ての困難は自分が罪であるから起こる。罪を持つ者が罪を持たない神に不満を言うことは間違っている。」・・・・・・
1998.9.1
ルカ8章22節から25節を学びました。
「そのころある日のことイエスは弟子達と一緒に船に乗り「さあ湖の向こう岸に船で渡ろう。」と言われた。それで弟子達は船を出した。船で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。所が突風が吹き下ろしてきたので、弟子達は水をかぶって危険になった。そこで彼らは近寄ってイエスを起こし「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」といった。イエスは起きあがって風と波とを叱りつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。イエスは彼らにあなた方の信仰はどこにあるのです。と言われた。弟子達は驚き恐れて互いに言った。風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
波を沈めたイエスはすごかったと思う。イエスは常に最善をなしたもう。又「公正と正義を川のように流せ」とあるようにえこひいきをしない。どんな場面でもイエスが支配して下さるときに良い結果になる。人生の旅路をイエスという大船に乗った気で行ったらどうかと思う。弟子達はイエス様がそばにいたのになぜ動揺したのか。又眠っていたと言うところにイエスという方がいつも平安な方なのだなと思わされます。天地創造から見れば風を治めるくらいは何のことはなかったのかも知れない。
北朝鮮がテポドンというミサイルを日本の上空にとばしたことが話題になりました。かつての日本と北朝鮮は同じ事をやっている。自分の国が日本より勝っているという間違った誇りを持ち又国民の目をそらしてばかりいる。自分たちが孤立して目が見えなくなっていることを国民に知らせないよう必死になっている。これに対し高村外務大臣は「北朝鮮との関係が難しいものとならざるを得ない」と言っているが逆に「見栄をはるのはやめろ。出来るだけ助けてやるから」と言って米でも食料品でも分けてやったらよいと思う。戦争は永久に放棄する。軍事力は所有しない。諸国民の信義に依存して進みたいという立派な憲法があるのだから。戦争は人の心の中に起こるのだから。心の中に平和を持たなければならない。
イエスは平和だった。主の平安が私たちの心を支配して下さるように。
ザアカイを見るときに、砕かれた魂というのはああいうのを言うのではないか。張り巡らしている防御戦を取ることではないか。
心の貧しい者
1998.7.19
聖書の中でいわゆる山上の垂訓というところがあります。そこの所から調べて発表してくれという事になりました。
聖書の中でマタイの福音書に、「この群衆を見てイエスは山に登りお座りになると弟子達がみもとに来た。そこでイエスは口を開き彼らに教えて言われた。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。・・・・・・・・」
又ルカの福音書にも同じようなことが書かれています。「イエスは目を上げて弟子達を見つめながら、話し出された。貧しい者は幸いです。神の国はあなた方のものですから。今飢えている者は幸いです。あなた方はやがて飽くことができますから。今泣いている者は幸いです。あなた方は今に笑う者になりますから。人の子の為に、人々があなた方を憎むとき、又あなた方を除名し、はずかしめ、あなた方の名をあしざまにけなすとき、あなた方は幸いです。・・・・・・・・」
これらの場所がいわゆる山上の垂訓(すいくん)と言われる所です。
「心の貧しい者」という言葉の意味についてですがだいたい三通りがあると思います。1.心が謙遜でない者、傲慢な人 2,自分を神に対して貧しい者だと自覚している人 3、謙遜な人 4,又ルカの方では単に「貧しい人」となっています。つまり貧乏の意味だと思います。同じ事が語られたのにこのマタイとルカの食い違いは何なのだろうか。ここに何か意味が隠されているのだろうか。
いろいろな聖書の翻訳を見ますと、マタイの方については2,3,の訳し方が主流となっておりルカの方については4の意味が主流となっています。そこでこの言葉の意味についてみんなで話しあってみました。
・当時はパリサイ人や律法学者がいて行いばかりが強調されたこと。そして他の人と比べてどうかということばかりが強調されたこと。神の前にどうか、神の前に貧しい者であるということが自覚される必要があったのではないか。
・神の前に出て自分の貧しさを知り自分の中にあった垢を落として行くような清められて行くような機会とすることが必要なのではなかったか。
・貧しさというのは餓え渇きでないか。自分が霊的に貧しい者であることを知り、求める心を持って神の前に出ることではないか。聖書がありこの御言葉を食べて行かなければならない。マリヤのようにまず神様の御言葉を求めて行くということではないか。
・ありのままで感謝を持って神の前に出るということではないか。
・律法学者にとってはおっかない神様だった。しかしそのままの姿で貧しくても良いから子供が父を求めるように、どんな悪いことをしててもそのままで良いからということではないか。
・2000年前の貧しい状況の中で語られた。イエスの御足の跡をたどって生きて行く。その事によって栄光を現して行かねばならない。
以上いろいろと話し合いながら感じたこと、またまとめとして思うことはありのままで神様の前に出ても良い。物質的に貧しいままで又霊的にもレベルが低いその様なままで神様の前に出ても良い。謙遜な人が幸いだと言ってるのではなく謙遜でなくても良いからそのままでよいから私の所に来いと言ってるのでないかそんな感じが致しました。
1998.6.2
会が始まる前にいつも雑談をするのですが、先日行われたインドとパキスタンの核実験から話が始まり、週末の時代の出来事に話題が及びました。戦争が始まったらどのようになって行くのか。その時のために、野菜を蓄えたり、燃料に薪を取っておいた方がよいのか、また米ソの冷戦が終わったことの意外さや、未だにそれを引きずっている北朝鮮のことや、北朝鮮が核を持った場合には、そのねらいを韓国と同時に日本にも照準を絞って来るであろう事など、またハルマゲドンという戦いについて聖書の黙示録で触れているが、その中で戦いのために馬が使われるとありますが、その時には、戦車とか自動車とかはレーダーに引っかかるので、そういう意味で馬が出てくるのではなかろうかと宇野という先生が講演をしていた事などが話し合われました。
それで、終末のことについて学んでみようということになり、マタイの福音書24章3−44節を読みました。その中で、「イエスがオリーブ山で座っておられると弟子達がやってきて密かに言った。おっしゃって下さい。その事はいつ起こるのですか。またあなたが来られて世の終わるときには、どんなしるしがあるのですか。イエスはそれに答えて、人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、私がメシヤだといって多くの人を惑わすであろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうがあわてないようにしなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかしこれらはすべて産みの苦しみの始まりである。・・・・・・稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所にははげ鷹が集まるものだ。」死体のある所に・・・・・とはどういう意味かと戸惑うが、「来るべき時が来たら主がすぐに来る」という意味だそうです。使徒の働きの一章六節に「主よイスラエルを再興して下さるのは今ですか。と尋ねると、父がご自身の権威を持ってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない・・・・・・。」とあります。これはすべては父のペースでやる。我々の知るところではない。・・・・という意味だそうです。
オウム心理教の麻原しょうこうも自分が再び来られると約束されていたキリストであると言い、また世の終わりがあと何年かしか無いと弟子達をせかしましたがこの麻原について弟子で医師であった林郁夫被告が「キリストは自分に罪がないのに十字架にかかって死んだ。麻原は自分に罪があるのに、人になすりつけて、自分の十字架を他人に負わせた。」と言っております。また統一教会の文鮮明が、同じように自分が再臨のキリストだと名乗っています。
またエホバの証人にも話が及びました。「エホバの証人」ではエホバという神の名前を使えと言う。しかし エホバというのはYHWHという神の御名に母音を補って人間が合成して作った名前であり本当の呼び方ではありません。本当の呼び方は誰も知らないのです。だからエホバの証人は神に対して間違った呼び方をしていることになり本当の神の名前を使っていないことになります。「みだりに主の御名を使うな」と書いてあるのに間違った名前をみだりに使っている。神様と呼びかける意味で「主」と呼んだ方が正しい呼び方だと言えるのではないか。・・・・・等が話し合われました。
98.5.5
ルカによる福音書16章1−13節より不正な管理人の例えを学んだ。あらすじは次のようなものである。
イエスが弟子達にこんな話をされた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費しているという訴えが出された。主人は彼を呼んでおまえについてこんな話を聞いたが何と言う事をしてくれたのだ。もう管理を任せておく事はできないから会計の報告を出しなさい。管理人は心の中で考えた。主人にこの管理の仕事を取り上げられるがどうしよう。土方をするには力がないし、乞食をするのは恥ずかしい。そうだこうしよう。こうしておけばいつ管理の仕事を辞めさせられても、彼らが私を自分の家に迎えてくれるだろう。そして彼は主人に負債のあるものを一人ずつ呼んで最初の者にはそれを半分に、次の者には八割に証文を書き替えてあげた。
これらのことを見ていた主人は、不正な管理人がこうも抜け目無くやったのをほめた。」
そこで私はあなた方に言うが、不正な富で自分のために友を作りなさい。そうしておけば富が無くなった時に、彼らはあなた方を永遠の住まいに迎えてくれるだろう。
小さい事に忠実な人は大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は大きな事にも不忠実である。だからあなた方が不正な富に忠実でなかったら誰があなた方にまことの富を任せるか、また他人の者に忠実でなかったら、誰があなた方にまことの富を任せるか。しもべは二人の主人に仕えることはできない。一方を重んじて他方を軽んじるからだ。あなたがたは神にも仕え富にも仕える事はできない。
こんな内容なのであるが、初めの方と後ろの方のつながりがよく解らない。又解釈の難しいところである。今まで不正な管理人が抜け目無くやったことを神がほめられたという意味だと思ってきたがどうも違うようである。
この世の子らとか、金を借りてる人たちとはクリスチャンでない人たちを指し、金持ちは神様、管理人は私たちクリスチャンを指す。神様は貧乏人たちの罪を解放させようとして管理人を雇ったが、管理人は自分のために自分の立場を利用しようとしただけであった。罪に苦しむ人に自分の出来る方法で解放されるように努力してあげれば、キリストが永遠の住まいに迎えてくれる。私たち教会は不完全ではあるが また知恵も浅いが世のノンクリスチャンの罪が軽くされて行くように働くべきであって自分の富のために仕えてはならない。神はそんな私たち教会を用いて民を救いに導く。そういう意味でないかと学んだ。 では「不正の富で自分のために友を作りなさい」とはどういう意味なのか、少し引っかかるが・・・・・・。難しい箇所である。