三浦綾子を偲んで

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三浦綾子が1999年(平成11年)10月12日午後5時39分、77歳にて天に召されました。
ここに謹んで哀悼の意を表したいと思います。また、このことを記念して
彼女の著書を読んでの感想などを書いてみたいとおもいます。

10.「細川ガラシャ婦人」
9.「病めるときも」
8.「銃口」
7.「雪のアルバム」
6.「母」
5.「天北原野」
4.「泥流地帯」「続泥流地帯」
3.「氷点」「続氷点」
2.「この土の器をも」
1.「道ありき」


10.「細川ガラシャ婦人」
 時代背景は室町幕府の末期から始まる。戦国時代で応仁の乱の頃である。織田信長が駿河の今川義元を桶狭間に奇襲してこれを破り、たちまち勢力を得る。最初は足利義昭と手を組んで京都にはいる。がだんだんと力を得てくる信長を見て義昭は彼を除こうとするが1573年信長は義昭を追い、ここに室町幕府は滅びる。ここから信長は天下人となり全国統一の事業に着手する。そんな中にあって光秀は明智城を構えているが斉藤道三の息子義竜に襲われ滅び越前の朝倉義影に世話になる。その後朝倉と別れ信長に召し抱えられるようになる。丁度この頃種子島に鉄砲が伝来し、鹿児島にフランシスコ=ザビエルが上陸しキリスト教を伝えている。

 この細川ガラシャ婦人の物語は光秀と妻のひろ子との間に生まれ、後に細川忠興に嫁ぐ玉子の物語である。そしてストーリーはこの時代から始まって本能寺の変を経て後に秀吉との戦いに敗れた光秀は自決し、その後秀吉の世の中となり秀吉が死んで関ヶ原の戦いを終え家康の世の中となり玉子がその戦いの中で命を落としその葬儀が行われる所で終わっている。

このお玉の侍女となって細川家への玉子の嫁入りにもついて行き玉子が細川家で死んだその時までずっとついていた清原佳代が熱心なキリシタンで、玉子は彼女の影響を受けクリスチャンとなって行く。それにしてもこんな戦国時代からそれも大名など(高山右近、小西行長、黒田孝高、黒田長政、秀吉の妻の甥、木下勝俊、織田信長の弟織田長益ら)国を代表する上層部の人達に伝道されて行ったことに驚きの念を禁じ得ない。

 又明智光秀が悪い人だと歴史の時間に習ったがこんなにも良い人で人格者だったのかと認識を新たにさせられた。信長からいろいろとひどい目に合わされその後やむなく信長を襲ったのだがその後で加勢してくれる人が誰もいなかった。信長を倒す人は光秀しかいなかったが光秀を倒して天下人になろうとする人は秀吉や家康や他にもたくさんいたようである。天下人となる器でなかったのだろうと思う。ナンバー2の器だったように思う。同じように関ヶ原の戦いに敗れた石田三成のことも思うが彼もやはり頂点に立つ器ではなかったのではないかと思わされる。そんなことを考えるときに自分も同じ様な感じがする。

 細川藤孝と忠興は光秀とは大の親友だったが、又玉子を嫁がせた親子の関係でもあるのに彼らは光秀よりも秀吉に組みした。どちらが勝つか強い方につくというのである。組みしたのは忠興の弟の興元だけであった。私だったら例え自分の家が滅びたとしても光秀についたであろうと思う。みんなで模様眺めを決め込んで誰も光秀を助けようとしなかった。その事が悔しい。

玉子がどの様にしてキリシタンになっていったかその辺の様子を追ってみたい。
 光秀が秀吉に敗れ光秀の娘である玉子を忠興は何とか守ろうとして彼女を険しい山中の味土野という所にかくまう。そこで二冬、一年八カ月を過ごすことになる。その中で清原佳代は「早く帰城出来ることよりももっと大切な祈り」をささげているという。それは「諸々の苦難がお方様にとって大きな御恩寵とお思い遊ばすことが出来るようにという祈りでございます」と言う。「それよりも私にとっては帰城出来るようにという祈りの方がありがたい。」「その祈りは朝夕はもとより機を織りながら、歩きながら毎日欠かさず致しております。でもお方様、人の一生は苦難の連続かも知れませぬ。無事御帰城なされても又別のもっと大きな苦難が待っているかも知れませぬ。」・・・・・「でも苦難を御恩寵と喜べるなどということは人間にはありますまい。祈ってくれることは嬉しく思います。でもキリシタンのことは私には解りませぬ。」・・・・・・「キリシタンには殺生戒はござりませぬか。」「ござります。殺す無かれ。盗む無かれと十の戒めの中の一つにござります。」「それはおかしい。右近様は有名なキリシタン。なれども又優れた武将でいらせられる。なぜキリシタンの右近様は殺生戒を犯して居られるのです?」「さ、それは。」「私にはゼウスの神も御仏も信じとうは有りませぬ。」

 やがて味土野から、城に戻ることになったとき・・・・・・
今まで幾度も語った事ながら、お市の方は柴田様に嫁がれて1年も経たぬうちにお子と別れて城と共に果てられました。(お市の方は信長の妹で、最初浅井長政に嫁ぐが信長に攻められ焼き滅ぼされてしまい自分は3人の子供を連れて信長の元に帰る。その後柴田勝家に嫁ぐが、秀吉に攻められ城と共に果てる。)伊也様も嫁いでどれほども経たぬうちに夫を討たれてお戻りになりました。(伊也は忠興の妹、一色義有に嫁ぐが、義有は忠興に殺される。そして細川家に戻される。)姉のお倫も弥平次殿と結ばれて幾ばくもなくともに滅びてしまわれた。(玉子の姉お倫は荒木村重に嫁ぐがその一族は信長に攻められ果てる。戻されてきたお倫はその 後光秀の家臣の弥平次に嫁ぐが本能寺の変で敗れた光秀と共に滅びる。)私にしても今喜んで大阪の新宅とやらに戻ってみてもどれほどの幸せが続きましょう。・・・・・いつ帰れるかと待ちわびていたときの方がなにやら望みもあって幸せであったと思います。今は返って恐ろしい。幸せになることが私にはひどく勇気のいることに思えるのです。・・・・・・幸せの時すらこの幸せがいつ崩れることかと恐れて生きて行かねばなりませぬ。」「はい。人間はその様に弱いものでござります。」「・・・・・この恐れを取り除くものがほんにあるなら・・・・・。」「ござりますとも」「やはりゼウスの神ですか」「はいお方様・・・今からでも遅くはありませぬ大阪の地にはここと違って神父もおられます。かの地にまいりまして共にゼウスの神に祈りをささげましょう。」「この味土野でそなたの暮らしを見ていて信ずることの尊さ、強さを感じました。でも果たして私にその教えが信じられるかどうか。」「御恩寵によって、きっと。」「信じられますか。」

 高山右近が細川家に立ち寄ったことがあった。帰りがけに忠興は玉子に「何か訪ねることは無いか」という。「神を信じようと致しますときに一番大切な心がけは何でござりましょう。」「良いお尋ねじゃ。神を信ずるものに第一の心がけはのう。それは何事も神の御心のままになさしめ給えと祈ることではないかと存ずる。」「さようでござる。神は全知全能で全き愛のお方 。・・・まず安心して神の手にお委ねすることが肝要じゃ。・・・・」その言葉が玉子の胸に素直にしみていった。その時に玉子は「キリストがどういうお方か、神がいかなるお方か、まだ解らないが神のなさるままにお委ねして黙ってキリストの後に従って行きたい」と心から思う。

 忠興は玉子が人目に付くのを恐れ、分けても秀吉の目に付くのを恐れ玉子を一歩も外出させなかった。神父に会って一度教えを請いたい。出来ることならすぐに洗礼を受けたいと願う玉子は、ある日忠興の留守をねらい侍女の服装をして抜け出した。そして初めて神父に会う。
 「私三年前より、キリシタンの教会に参上したくひたすら願ってまいりました。今念願かなってようやく、夫の留守を幸いここに駆けつけることが出来ました。二度と伺えるかどうか解りませぬ。一生に一度のことかも知れませぬ故時を惜しんでのお尋ね、失礼とは存じますがどうぞお許し下さいませ。」・・・・・矢継ぎ早に発せられた質問の多くは、死後のこと、死んだ者に関する事であった。・・・・・・「キリスト様が御復活なされたことは信じますが、私どもまで復活できるとは信じられませぬ。あなた様は心からお信じになられますか・・・・・・。」・・・・・・「オサナゴニナルノデス。オサナゴハ母ノフトコロニナンノ不安モ、オソレモナク眠ルデハアリマセンカ。神ノフトコロニ安心シテ眠ルノデス。神ハ慈愛ノカタデス。慈愛ブカイ人ニハオソレガナイ。神ヲ信ズルモノニハオソレガナイ。神ヲ信ズルモノハ慈愛ブカイノデス。慈愛ブカイ人ニはオソレガナイ。平安デス。君主モ敵モオソレマセン。神カラ慈愛ヲモラッテクダサイ。・・・・・・。
 洗礼を受けたかったが城の者に見つけられ連れ帰られてしまう。その後侍女や警護の者らもだんだんと信者になって行く。そして秀吉によってキリシタン禁制が発布される。宣教師も国外追放となる。そして佳代が神父の入念な指導のもとに神父に代わって洗礼を授ける。洗礼名はガラシャといった。そして病弱のみどり子光にも受洗せしめる。

 以上が玉子がキリシタンになっていった様子である。その後ポルトガルとの貿易の継続を望む秀吉は仕方なく禁制をゆるめて行く。そしてやがて秀吉が死に関ヶ原の戦いとなって行く。その中で玉子は果てて行く。


9.「病めるときも」
 藤村明子は洞爺湖畔で初めて九我克彦に会う。青白い半分子供のような克彦はF大学医学部の研究室で放線菌という結核やチフスの元となる菌の研究をしていた。明子と克彦が出会って五年の月日が流れやがて彼らは婚約する。家はお茶舗であったが 戦争で店員が三人も応召し手伝っていた明子は疲労から 肺結核を発病する。藤村家では早速婚約の解消を久我家に申し出るが、克彦は「自分は結核菌を殺す薬の研究をしているのだ。そんなことで婚約の解消はできない。」と一蹴する。そして終戦の夏明子は健康を回復する。研究のために時間が足りなく克彦は結婚の延期を申し出る。

 明けて22年彼の研究が成功し新しい菌を発見したことを皆に告げる。おめでとうおめでとうとみんなで祝福するがその晩、彼の研究室が火事になる。そしてノートも論文もサンドカルチュア(菌培養の試験管)、菌株等が全て焼けてしまう。そして彼は興奮性精心分裂症を発病する。「沈黙していた克彦が突然大声で笑った。一同はぎくりとして克彦を見た。克彦の目が不気味にすわっていた。・・・・・」
 医者からは「再発することもある。結婚はくれぐれも慎重に」と言われるが、「彼が狂ったのは彼のせいではない。どんな事があっても例え再発することがあっても彼を最後まで愛し通そう」と明子は思う。
 2カ月ほどして退院し彼は再び研究室に戻る。そして発病から1年経った秋、明子の教会で結婚式を挙げる。藤村家としてはごくささやかな式を望んだが久我家では克彦を慰める気持ちもあって多くの人を招きたがった。しかしその事が彼の繊細な神経を圧迫し式の中程で再び発病する。医者は式を挙げただけでまだ籍は入れてないのだから結婚は考え直すべきだという。しかし結婚式で言われた「健やかなるときも病めるときも 汝夫を愛するか。」の言葉を思い出し医者から言われた言葉を打ち消して行く。

 彼は半年の入院生活を終え24年の4月の末に退院する。その後水虫の研究を始める。明子は毎日克彦の家に通う。明子は一緒に住みたかったが克彦も彼の親たちも彼の再発の心配がありそれを言い出せずにいた。克彦の母が坐骨神経痛で寝込み家事をする者が必要だったが明子は風邪を引き39度近い熱を出してしまう。結核の再発の心配もあったので大事をとり安静を続ける。そして住み込みで働いていた津由子に代わりに行ってもらう。2カ月程過ぎて明子は彼の家を訪ねる。と2階の部屋で獣のように絡み合う津由子と克彦を見てしまう。その後明子は決して克彦の家には行くまいと心に決める。それから3日ほどして彼は再び入院する。医者の牧浦に相談すると 発作の時は非常に道徳観念が薄れてしまったり自殺の恐れや傷害の恐れさえあるという。

 「「健やかなるときも病めるときも 汝夫を愛するか。」明子は日に幾度かこの言葉を思い出した。病む人間を愛することの難しさを今やっと思い知らされたような気がした。又克彦は元に戻るだろう。そして又病気は繰り返されるかもしれなかった。そのたびに克彦は又他の女を犯し、あるいは殺人さえ犯すかもしれないのだ。そしてあるいは自分が克彦に殺されないとも限らない。その克彦を自分は愛することが出来るだろうか・・・・と思う。」」
 しかし又再び病院に通う。そして津由子が妊娠する。津由子はどうしても克彦の子を産むという。津由子は男の子を産むが難産であっけなく死んでしまう。その子を明子が育てる。翌年の7月克彦は再び入院する。そして津由子の子である雪夫は2歳を過ぎた4月重いはしかにかかりその後脳症を起こし白痴になってしまう。雪夫が両手をついて「ごめんなしゃいね。」と言う。そればかりを繰り返すのである。「お辞儀馬鹿」というあだ名が付いてしまう。祖父は雪夫を膝の上に抱きその頭を顎の下に置いて涙をこぼす。「おじいさん。わたしどうしてこんなにつらい目にあわなければならないの。」「教会ではいろんな事を聞いたわ。苦難はなぜあるのかって・・・・・でも・・・・。」

 明子の行っている教会に精神薄弱児の施設の院長がいた。明子は雪夫のことを相談し出来れば自分もそこで働きたいという。そしてそこで働くようになるが 明子はそこで精薄児が更に分裂症やテンカンなどの病気に悩まされる悲惨な事実を知る。そして重症室と呼ばれる部屋へ連れられて行ったとき自分の指をかじってしまうため両手をひもで縛られている子供達を見る。「明子は驚きのあまり声も出なかった。その子たちの心が何に対しても反応を示さないように身体も又痛みを感ずることが出来ないようであった。明子は暗澹(あんたん)とした。ここに来るまで自分がなぜ苦しみに会うのかと明子は何度も自問自答した。しかしここでは その苦しみを苦しむこともできない燐な子供達があふれていた。知能の低い子供達は、テンカンの発作に倒れ、分裂症に陥りまた何の反応も示さない自閉症になっても一度だって「どうして自分だけがこんなつらい目に会うのか」と思ったことがないのだ。いや思うことが出来ないのだ。明子は深い感慨に浸らずにはいられなかった。」」
 雪夫のまねをして「ごめんなしゃいね。ごめんなしゃいね。」と頭を下げる子供達の頭をなでて上げながら、いいも悪いも解らない子供達にこそ人々は頭を下げて詫びねばならないと明子は思う。
 「精薄児になる最も大きな原因は、妊娠3カ月以内に妊婦が受ける精神的ショックであると彼女は知る。この子達の母は、誰かの鋭い一言に激しいショックを受けたのかもしれない。その憎しみの言葉に傷つけられたのが、親よりも腹の中にいた子供達であったとは何という残酷なことであろうと明子は思う・・・・・・・。」「ごめんなさいね。ごめんね。と頭を下げる子供達にていねいにお辞儀を返しながら涙があふれてならなかった。今こそ明子は自分の選び取ってきた道がこれで良かったのだと思わずにはいられなかった・・・・。」

以上が荒筋であるが、とにかくすごいの一言につきる。「病むこと」にもいろいろあるが、しかしいろいろな病があるものだと思う。病の中でも精神病はその最たるものだと思う。そして「耐えることのできない試練には会わせない」と聖書からの言葉が引用されているが、見事その試練を乗り越えた明子も、そういう試練を与えて そして病の深さと神の愛の深さとを教えて下さる神様もすごいと思う。




8.「銃口」
 「昭和を通しての神と人」とをテーマにして書いてくれと頼まれて書いたとある。小学校で大正天皇の大喪のことを作文に書かされたところから始まって昭和天皇の大喪の礼の日の様子で終わっている。

 文字通り軍国主義のただ中にあって人々がどの様に生きて行ったのか、又テーマである神、教会、クリスチャンに、登場してくる彼らが、どのように触れ合い、接して行ったかが書かれている。困難な時代の中にあって教会がどの様に存在して行ったのか・・・・が書かれている。キリスト教の証の在り方とはこんなものではないかと思わされる。主人公の北森竜太や妻の芳子、坂部先生夫妻らがどの様に神に接して行ったかその様子を読みながら自分の生活と共通するものが多くあるように思わせられた。

 戦争の前、スパイ容疑で捕らえられ留置場から釈放はされたが、恩師の坂部先生を失い、また特高の尾行がついたり職場に憲兵が尋ねてきたりで職場を辞めなければならなくなったりし、また捕らえられた時に無理矢理「教師退職願い」を書かされ教職にも就けず、落ち込んでいる、竜太に向かい「神は絶対者なの・・・・。この天地を創造して、私たち人間を造って命を与えて下さった絶対者・・・・。その絶対者なる神の深さは私たち人間の想像を超えているわ。人間の物差しでは測ろうとしてもはかれないの。竜太さんお解りになる?」それに対し竜太は「わからない。絶対者など僕には解らない。そんなもの。」と言う。

竜太の教師生活は丁度三浦綾子の青年時代の教師生活をそのまま写したような感じだと思われる。違うのは彼女は終戦を迎えて価値観が大きく転換したときに、今までの自分が教えてきたことに自信を持てなくなり時代について行けなかった。が、竜太らはそんな中、本来は戦争の前に予定されていた結婚式を戦争後に挙げそして又再び教職に戻って行く。

 「 キリスト教の神というのは、自分の想像を超えた、とてつもない存在のようで全てを委せてみたいと思うようになった・・・・」とキリスト教の神に希望を見出して行く。




7.「雪のアルバム」
 浜口清美といういわゆる妾の子の信仰に到るまでの告白が書かれている。
 妾の子というのは自分自身に責任はないのに随分と苦労し悩みながら生きるものだ・・・・・な・・・・と思う。
 清美をそのような子とさせてしまったことに父親に当たる人の妹(叔母)が随分と責任を感じ又清美のためにも祈ってくれたようである。この人がクリスチャンで、又ボーイフレンドの章もクリスチャンでいろいろと励ましてくれる。

 人間は根強い憎しみを抱きつつも神を求める。そんな時、神はどのようにして人間を神の子として下さるか、それを一つの課題として書いた・・・・・とある・・・・。




6.「母」
 母を通しての小林多喜二の生涯が書かれている。
 多喜二の優しさと、小説を書くのが好きで蟹工船を書いているときの様子や、又共産党の活動に入って行った様子や、また、叔父が教会員だったこと、姉もクリスチャンだったことを通して、自分も聖書に触れた様子などが書かれている。純粋に貧しい者を助けようとして活動に入って行ったようである。
 彼の母は字も読めなかったが、牧師から「山路越えて」の歌を教えてもらい暗記もしていた。やっと覚えた字で二月20日が近ずくと涙が出てくる・・・・・と詩を書いている。 
 多喜二は優しいいい人だったのだな・・・と今更に思う。



5.「天北原野」を読んで
 道北の天北平野に最初住んでいた孝助や貴乃が樺太へと移り住み終戦を迎え又再び北海道へと戻ってくるその様子を伝えている。樺太での生活が主な舞台である。婚約していた孝助と貴乃が完治によって間を裂かれ、しかし互いの思いを整理することが出来ずそれを引きずる内に嫁にもらったあき子が自殺をするなど複雑な心境が描かれている。

 特に樺太での生活の様子が描かれ興味深い。又終戦になっての引き上げの様子も興味深い。樺太にも教会があってそこから流れてくる賛美歌の様子が描かれている。又神は与え神は取り給うという言葉が貴乃の父の兼作の口から語られている。キリスト教的には大したことはないと思うが樺太を取り扱ったことがすごいと思う。





4.「泥流地帯」「続泥流地帯」を読んで
 上富良野を舞台として、大正末から昭和初期にかけての、主人公石村拓一、耕作らの貧しい生活が書かれ、十勝岳が噴火し、雪と雨により泥流が発生し、人々が流され、その沢が全滅するところで一冊目は終わっている。
 
 続編になって、その泥流の後立ち上がって行く姿が書かれている。
 主人公の母が一時キリスト教の宣教師のところで病気の療養をさせてもらい、クリスチャンになったり、祖父がクリスチャンにまではならなかったが、開拓に入る前、本州にいたときに、キリスト教に接し影響を受け、端はしに、キリスト教的な考え方が出てくる。 又遊郭に売られて行く子と、そこからその人を助け出そうとする矯風会が登場してくる。 
 
 又善を行っているのに、なぜひどい目にばかり会わねばならないのか・・・・ということが一つのテーマとして取り扱われる。そこにヨブ記が登場し、母の佐枝や耕作が言うには「それは俺達には解らないが我々人間の頭では計り知ることのできない何かが、隠されているんじゃないのかなあ。」「人間の思い通りにならないところに、何か神の深い考えがある・・・・。と牧師から聞いている。」「だから苦難に遭うときに災難と思って嘆くか、試練と思って奮い立つか その受けとめ方が大事なのではないか・・・・。」
 確か「銃口」の中でも同じ様なことを芳子が言ってた様な気がする。その様なことを考えてくるときに、聖書の御言葉をいくつか思い出す。
 
 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。コリント人への第一の手紙10章13節
「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」ピリピ人への手紙4章3節
「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」エペソ人への手紙3章18〜19節
 
 又思い返せば同じ様な思いは何度か聞いたことがある。ナチス占領下のポーランドにおけるユダヤ人迫害、日本の占領下における韓国の人達の思い。

 神がいるならなぜこの様な事が起きるのだろうか・・・・・。
その時は解らないが後日解るのだろう・・・・・と思う。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」ヘヴル人への手紙12章5〜6節
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」
ヘブル人への手紙12章10〜12節
「 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって」
ペテロの手紙第一1章7節




3.「氷点」「続氷点」を読んで
 「氷点」では陽子が自分が殺人を犯した佐石土雄の娘であることを知り、自尊心を持って自分に誇りを持って苦しいときも耐えてきた自分であったが、その事実を知り、その誇りが音を立てて崩れさり、もうそんな自分に耐えれないというか、そのショックから自殺を図るところで終わる。
 続氷点ではその陽子が自殺から一命をとりとめて助かったところから始まる。そして実は陽子は佐石の娘ではなかったことが解る。しかしここでは正真正銘佐石の娘である相沢順子が登場する。そして陽子の本当の母である三井恵子とその家族も登場する。
 
 順子が佐石が殺したるり子の家族である敬造や夏江と対面した時に「ごめんなさい。ルリ子ちゃんを殺したのは私の父です。私は佐石土雄の娘です。私をどのようにでもなさって下さい。私の父の罪を私はお詫びしたいと思って生きてきたのですから。」と言う。又彼女が自分の生い立ちを知ったときに陽子との手紙の中で「ただ、私は自分の父を一時非常に憎み呪い心の中で責め続けた事が有りました。しかし私は相沢の父母に連れられて教会に通いそこでキリストの贖罪を知ったのです。それから私は本当に明るくなることが出来ました・・・・・・。」と語る。
 そんな中で陽子は人間の罪を真に許しうる神のあることを思った。
そして「そうだまず母に電話を掛けよう」として受話器に耳を傾けるところで終わる。

キリストが我々の罪を背負って十字架にかかりその事によって我々が罪から自由にされることのすばらしさを思う。





2.「この土の器をも」を読んで
 三浦綾子が光世と結婚をして処女作である「氷点」の入選までを扱っている。
 カリエスや肺結核という大病で13年もベッドに寝たままであった彼女もベッドから解放されやがて少しずつ健康を回復して行く。そんな中雑貨屋を始め、又そのかたわら小説を書くようになって行く。初めは教会の週報に連載小説を頼まれたのがきっかけでだんだんと主婦の友に手記を載せたりしていたが、やがて朝日新聞の懸賞小説に応募する。
 
 雑貨屋を10時までしてその後帳簿の整理をしてそれから2時頃まで床の中に入りながら書いたそうである。千枚である。書いているのを夫の光世が読みながら「綾子、これは入選するよ。」と言う。「あらどうして。」「今朝聖書の言葉がひらめいたんだよ。「何でも祈り求めることは、既にかなえられたと信じなさい。そうすればその通りになるであろう。」この御言葉がひらめいたんだ。だから入選するよ。」
 
 そして第1時選考を通過し、第2時選考を通過し、トップとなる。その時に
「綾子。神は我々が偉いから使って下さるのではないのだ。聖書に有るとおり我々は土から作られた、土の器にすぎない。この土の器を用いようとししたもうときには、必ず用いて下さる。自分が土の器であることを今後決して忘れないようにしよう。」と言う。ここから表題が取られたのである。

 37歳で結婚するが人生の前半は病気ばかりである。それが身体が回復し、結婚し、やがて小説家へと道が開かれて行く。その後も病との戦いであったようであるが、しかし、神の用いたもう人生ってすごいなと思う。私たちは土の器にすぎないが一人一人に同じ様な可能性が用意されているのだと思うと人生ってすごいなと思う。





1.[道ありき」を読んで
 いわゆる三浦綾子が信仰に到り光世と結婚するまでの自叙伝である。
満16歳で小学校教員となり7年間の教員生活を送る。非常に熱心で充実した生活であったが敗戦と共に世の中の価値観というものが変換を迫られ、子供達の教科書に墨を塗らせるという屈辱的な事が起きた。「今までの日本が間違っていたのだろうか。それともアメリカが間違っているのだろうか。墨で塗りつぶした教科書が正しいのか、それとも元のままの教科書が正しいのか。今まで教壇の上から大きな顔をして間違ったことを教えてきたのではないか。もし正しかったとすればこれから教えることが間違いになる。どちらか解らぬ事を教えるより潔く退職して誰かのお嫁さんにでもなってしまおうか。」自分自身の教えることに確信を持てずに教壇に立つことは出来ず又間違ったことを教えたかもしれないという思いが絶えず自分を苦しめ退職することとなる。
 
 そんな中で西中一郎と結納を交わす。その結納の日に脳貧血を起こして倒れ肺結核が発病する。その肺結核の療養中に前川正と会う。彼とは幼なじみであり2つ年下の妹も良く知っていた。小学生時代にその子と一緒に教会のクリスマスに行ったのがキリスト教との出会いであった。療養生活を終えて西中一郎に結納金を返す。依然として生きる喜びを見いだせない生活を続ける。

 そんな中で前川正とのやりとりの中で「綾ちゃん。お願いだからもっとまじめに生きて下さい。」と真剣に言われる。そんな中で「だまされたと思って私はこの人の生きる方向について行ってみようか。」と思う。「丘の上で我と我が身を打ち付けた彼の愛だけは信じなければならないと思った。もし信じることが出来なければそれは私という人間の本当の終わりのような気がした。」それ以来教会にも通いながら少しずつ信仰を深めて行く。
カリエスを発病し床に伏す日が何年も続く。そんな中彼も肺病で去って行く。
 
 その後彼によく似た三浦光世が見舞いに訪れる。短歌の集まりがきっかけとなったようである。彼から結婚を申し込まれるが「私はこのとおり病人です。愛して下さっても結婚は出来ませんわ。」「なおったら結婚しましょう。」「三浦さん。私は正さんのことを忘れられそうも有りませんわ。」「あなたが正さんのことを忘れてはいけない。あなたはあの人に導かれてクリスチャンになったのだ。私たちは彼によって結ばれたのだ。彼にも喜んでもらえるような二人になろう。」

 それから5年経ち計7年のギブスベッドの生活に別れを告げる。そしていよいよ結婚となる。
そこで終わる。私たちが知る三浦綾子は非常に立派な確信に満ちた人生を送った小説家であるが、その人生の前半は病気と、まるで遊女のような、ふらふらとした、生きる意味を見いだせないという投げやりの生活である。前川正や三浦光世との出会いによりだんだんと変えられて行くのであるが、戦争による価値観の変換について行けなかった彼女の気持ちも何となく分かるような気がする。
私たちの時代には戦争はなかったが生きる意味を求めてさまよった高校生時代は彼女と共通するものがあるように思える。そして生きる意味を見いだせて良かったと痛感する。